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オタクリーマン“DiO”の奇妙な日常


by dio-w21
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悲しみの青函連絡船


悲しみの青函連絡船_e0046214_19404221.jpg
昨日に引き続きちょっとドラマティックな実話を。
これは僕のじーちゃんから聞いたお話。

僕のおじいちゃんのお姉さん(以下『函館のおばさん』)は、
幼い頃に養女に行きました。
津軽海峡を渡って函館の親戚の家です。
大きくなって彼女は結婚して子供をもうけました。
そして二人目の赤ん坊を身ごもった時は戦時中で、
旦那さんは当時青函連絡船の乗務員をやっていたそうです。

青森市は港があって激しい空襲があったそうですが、
アメリカ軍の標的になった物のひとつに青函連絡船がありました。
当時、北海道と本州を結ぶのは青函連絡船のみで、
物資も人もそれで運んでいたので、
青函連絡船を狙うのは物資の流れを絶つために
アメリカ軍にしても当然のことだったでしょう。
1945年、激しい空襲を受けた青函連絡船は12隻も沈められました。

激しい機銃掃射を受けたある青函連絡船は、
乗客たちの安全を守るべく、近くの岸に着岸を試みました。
乗務員たちは乗客を逃がすために、
激しい機銃掃射の中、誘導を続けたと言います。
そしてその銃弾の雨で一人、また一人と倒れていきました。
その機銃掃射に倒れた乗務員の中に、
その日は非番でありながら業務につくことになった
一人の青年がいました。

その青年こそ函館のおばさんの旦那さんだったのです。

このサイト下段の青函連絡船空襲一覧の下にある注釈に
『飛鸞丸の死亡者には大沼船舶養成所生徒、非番乗務1名。
津軽丸の死亡者には第四青函丸の加藤機関長(非番)を含む。』
とあります。
おばさんの苗字は『加藤』ではないので
飛鸞丸に乗っていた『非番乗務1名』の人物が
この旦那さんなのではないかと僕は思っています。

じいちゃんは僕に話を聞かせるときに、
「この人は非番にもかかわらず、乗客を逃がすために
 職務を全うして亡くなったんだ。」
と熱くドラマティックに語っていました。
実際はそこまでドラマティックだったのかどうかは
わかりませんが、亡くなったのは事実です。

僕は北海道で学生をしていた頃、
おじさん夫婦に大変お世話になったのですが、
上の話の中で、旦那さんが亡くなったときに
函館のおばさんのお腹にいた子がこのおじさんです。
だからおじさんは自分の父の顔を知らないのです。

このおじさん夫婦は子供がいないのですが、
自分の息子のように僕を今でもかわいがってくれます。
ありがたいです、ホント。
ちなみに去年の年末の日記に書いた
カニのフルコースを食べさせてくれたおじさんたちです。( ´-`)

亡くなった旦那さんは機銃掃射で倒れるときに、
脳裏には生まれてくる赤ん坊のことがやはり浮かんだのでしょうか。
ひとり残された函館のおばさんの胸中はどんなものだったのか。
想像するに悲しくなりますね。
戦時中は当たり前の出来事のひとつだったのかもしれませんけど。

(つω`)平和って素晴らしい。
Commented by dio-w21 at 2005-08-15 19:39
■Pleo ( TДT)
..2005/08/02(Tue) 17:04
Commented by dio-w21 at 2005-08-15 19:39
■Cammy (つω`)
..2005/08/03(Wed) 15:18
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by dio-w21 | 2005-08-02 19:39 | 家族 | Comments(2)